『「差別は自分とは関係ない」、そう思う人が多いかもしれない、けれども、ひとをあるイメージで決めつけ、からかい、軽蔑する。そんなことはないだろうか。いってみれば、自分と世の中を繋ぐ一つの形が差別なのだ。さまざまな“構え”や“ぎこちなさ”を捨てれば、差別と〈わたし〉の生き生きとした出会いが生まれる。この問題と向き合うときの姿勢を語り、具体的に差別とつきあう方法を提案する。』本のカバーを開いたら、飛び込んできた紹介文。 日頃、差別をなくそうと学習すればするほど、自分の加差別性に気づき、何て自分は差別的な人間なんだ、と落ち込んでばかりの私に、天啓を示してくれたように感じ、ページをめくった。 差別という出来事を考えるとき、私を抜きには考えられない。なぜかというと、私は私一人で生きられる訳はなく、常に社会と関わり合いながら生きているのだから、社会のなかに差別があるなら、社会の一員である私は、常に差別の中で生きていると思うからだ。 誰もが差別はしたくないし、させたくない、そう思っているだろう。私もそう思っているし、差別行為に怒りがわく。でも、同時に自分が加差別者でありたくないという思いが、差別という出来事を考えるとき、“構え”てしまったり、“ぎこちなさ”を生んでしまったりしているのではと思う。 『自らのなかで息づいている差別的な常識に影響を受け、思わず差別してしまう瞬間、自分でそのことに気づき、瞬間に抗うことこそ重要であり、そうした身体やこころ、姿勢を普段からどのようにつくりあげていけばいいのかが差別の日常を生きる基本』であり、『差別的な日常を「あたりまえ」のように生きている私という存在の核心にある「差別的なるもの」をつくりかえる』には、『私たち一人一人が、「差別的なるもの」に向き合うなかで、自分に最も適した、最もしっくりとくる仕方を考えていく他はない』と著者は伝える。 いま、この私はどう感じているのか、繰り返し向き合うことなのだろう。 |