「累犯」?「障害者」?目にとまったその文字に、ふとセンターの書棚から手にした。自分が生きているこの時代、この社会の現実の一端。なのに何も知らなかった。2001年11月に竪山勲さんのハンセン病問題講演を聞いて以来のカルチャーショックとでもいうものだった。つい昨年末のことだった。 著者は、政策秘書給与流用事件で実刑判決を受け服役した元国会議員。刑務所で「これまで生きてきたなかで、ここが一番暮らしやすかった…」とつぶやいた受刑者の姿に衝撃をうけ、出所後、マスコミが報じない現実を追いかけていった。 2001年に東京・浅草で起きた女子短大生刺殺事件、いわゆるレッサーパンダ事件と呼ばれていた事件が記憶にある人もあるだろう。この事件の被告も他の累犯障害者と同様に、人生の9割以上は被害者として生きた人生だった。それもさることながら、この被告の妹のことが私の胸を放さない。事件後、支援に乗り出したグループの代表が、「誰にも心を開かなかったあの娘がな、声をあげて笑うようになったんだ」という。自我を消し去り、家族のために生き続け「人生、何も楽しいことはない」と漏らしていた彼女が、「もう少しだけ、生きてみたい」と望むようになり、医師に宣告された寿命より7ヶ月も長く生きた。享年25歳の人生だった。 こうした現実に、社会はどう向き合えばいいのだろうか。彼/彼女らの生きる居場所を奪っていったその結末がこの塀の中にある。彼/彼女たちは、社会の中でどう生きればいいのか。また、社会は、彼/彼女のような存在をどう受け入れればいいのか。 多くの累犯障害者が塀の中におかれている現実は、彼/彼女らをそこに追いやっている塀の外、つまり日本社会の問題であることを、山本譲二さんは訴えている。 私はこの社会のどこにいるのか。そこは社会の「一端」なのではなく、この私が生きているこの社会そのものであった。問われているのは、この私自身であった。 |